不憫さを確かめる日記 27

中学二年から三年にかけて、家は家庭内別居のような状態になり、6畳もない一部屋に母と弟と私の3人で寝起きしていた。よりによって人目や生活音が人一倍気になる私にとって、一人になれるプライベートな空間が家にないことはとんでもなく耐え難いストレスであった。

学校では煩わしい猿のように大声で喚くクラスメイトの低俗な悪口や中身の無い会話、簡単に人を傷つけるろくでもないいじめっ子たちの素行を見るに耐えられず、死ぬほど学校というものを憎んだ。クラス全員のことが嫌いだった。毎日夜になると勝手に涙が出た。

一年以上思いを寄せていた男の子にも盛大に裏切られ、誰よりも仲の深かった女の子にも関係が絶たれ、家庭環境も悪かった私には、生活の中で楽しいことがたったの一つもなかった。

小さな部屋に母と弟と3人で生活していた私は、声を出して泣くこともできないために、ある夜涙を垂れ流しながら裸足でベランダに出て体育座りでカミソリを腕に当ててみたりしたけど、皮膚は切れないし鼻水は止まらないし、何も救われなくてやめた。

それでも父親が居るから学校は一度も休まなかった。寝不足で学校に行って死んだ目でクラスメイトと浅い会話を交わし、放課後は父親が仕事に行くまでアパートの外の階段で2時間ほど座り込み、寝るときには、日に日に音を立てずに泣くことが上手くなった。

その頃母親は離婚のために4人で暮らすための新居を探しており、数件、母に連れられて事故物件の内見に行ったりした。(小さい頃亡くなった祖母が見えていたため一応霊感があったとして私を連れて行った。) この内見が私の人生の中で最も暗い時間だったと思う。この世の中には親に連れられて事故物件の内見に行ったことがある子どもは何人いるだろうか。これは思春期の子供の精神を壊すのには十分な凶器であったのだ。

母だけの収入ではとても広いところには住めそうになく、事故物件な上に大人2人で住むにしても狭いであろう家ばかり紹介され、空気は目に見えて重く鬱屈としていた。不動産屋の男に「何人家族なんですか?」と聞かれ、母が「…5人です。」と言いたくなさそうに小さな声で吐露した後、その馬鹿な男が「5人⁈5人ですか⁈ この家ではかなり狭いですよ‼︎ 今は家賃結構払われてる感じですか⁇」とアホみたいにリアクションして、私の精神はズタボロになった。恥と屈辱と希死念慮が私を満たした。

今思えば、その頃鬱病のようなものだった思う。大好きな幼馴染と久しぶりに会っても、また姉や母と話していても、今までは笑えていたことが面白いと思えず、素直に笑えることが少なくなった。しかし、放課後に父親が家を空けているときには、学校での甚大なストレスや疲労から躁状態になり、まるで酒に酔ったようにハイになって、普段ならつまらない事でも涙が出るほど大爆笑したりした。暇になったときは何か声を発していないと不安に気持ちに襲われるため、家族の前でよく叫んだり喚いたりしていた(今思うと防衛機制の「退行」にも思える言動であった。)

いつも思い詰めて下を向いて歩いていて、下校中と寝る前は必ず涙が出た。息ができなくなるほど泣いて、酸欠で頭痛がして眠れない日も多々あった。目をパンパンに腫らして朝の満員のバスに乗って学校に行っては、人生のすべてに絶望していた。

不憫さを確かめる日記 26

中学生の頃、すごく特別な女の子が居た。美術部が一緒で仲良くなり、他のクラスメイトとはできない色んな話をした。当時の私は一般的に悪趣味と言われるようなものにばかり興味があり、彼女とはよくそういう話をした。書肆ゲンシシャという大分にあるお店について話したり、本を貸したり、お互いの家庭の話をしたりした。

毎週火曜日と木曜日は放課後部室に行き、彼女と隣の席で、絵を描いたり宿題をやったりしながら話をする。帰るときはいつも一緒で、2人揃って好きだった社会の男の先生の私服を見かけてはお互いの手を掴んではしゃいだりした。いろんな話をたくさんした。

ある日、そんな特別な彼女との一切の関わりが絶たれた。LINEやTwitterInstagramなどあらゆる連絡手段が向こうから絶たれた。『ブロックされています』という無慈悲な言葉をただ呆然と眺めながら朝ごはんを無理やり呑み込んだことをよく覚えている。彼女はその頃美術部の先輩たちと仲良くなり、わたしの隣の席で絵を描くことは減り、のちに美術部を辞めた。彼女とは丸一年話さなかった。廊下ですれ違っても、まるで他人のように早足で通り過ぎていった。何よりも辛かった。

ほぼ毎日彼女の夢を見た。夢の中で何気なく話しかけ、あるきっかけから「今までごめんね」と吐き出す夢を見た。いつも、やっと話せたと夢の中で喜んだ。目が覚めると絶望した。夢の中で生きていた方が遥かにマシだと思った。

その頃、私にはさまざまな不幸せが同時に重なっていたのである。

不憫さを確かめる日記 25

中学一年生の頃、クラスが一緒で席が近くだった男の子を好きになった。彼はとても見た目が可愛らしく、(彼のお姉さんは今田美桜にそっくりな美人だった。)不思議な言動でみんなを笑わせ、男女どちらからもすごく人気のある人だった。私はそんな彼と近づくために彼の好きな漫画をリサーチしてから会話を徐々に増やし、漫画を借してもらえるまでに進展させた。漫画を口実に二週に一度の頻度で二人きりで会っていたくらいには、いい感じだった。

しかし、後から思うと彼は女の子の扱いに長けており、女の子を喜ばせるのがうまい人だった。

彼はLINEで、いろんな言葉で私を褒めた。「いい匂い」「可愛い」「スタイルがいい」「色が白い」「髪が綺麗」「やさしい」など、月並みではあるが、醜形恐怖症に片足を踏み込んでいた当時の私にとっては、甘い言葉だった。その頃の私は、お風呂に入る前や夜中に、スマホの外カメラで自分の顔を360度いろんな角度から何枚も撮影して客観視しては絶望し、かなりの頻度で泣いていた。その写真は何百枚にも及んでいた。自分の顔が気になり、こまめに鏡を見ずにはいられなかった。自分の横顔のコンプレックスから、教室で後ろにプリントを渡すとき、醜い右側の顔ではなくマシな左側でしか横を向けなくなっていた。そんな具合だったのである。

そんな中、人気者の彼に甘い言葉をかけられていたものだから、救いのように思えた。毎日毎日LINEのやり取りを見返してはニヤニヤしていた。そんな風に何度も何度も褒めてくれる彼のことが好きで、依存していたのである。

彼とのLINEはほぼ毎日となり、連絡が来ない日はそれで頭がいっぱいになった。彼がカースト上位の女子たちと遊んでいる様子をSNSで見てはひとり家で憂鬱になり、ポエムじみたイタいツイートを裏垢に投稿したりしていた。

しかし、私は彼に誘われて共通の友人である男子1人を交えて休みの日に遊びに行ったりしていた。意気地なしの私は、中学1年の春から中学2年の夏になるまで思いを伝えることもせず、現状維持だけで幸せを感じていた。

ある日、彼から「ふたりで映画を見に行こう」と誘いが来た。これは確実にデートだと思った。嫌いな女の子には誘ったりしないだろうと考え、すこぶる舞い上がっていた。これはひょっとしたら両思いなんじゃなかろうかと想像しては、天にも昇る気持ちになっていた。しかし、結果的にそのデートは実現しなかった。

中学二年の夏に、近所で夏祭りがあった。そこへ彼が行くという噂をつかんだので、私は友達を連れてそのお祭りへ赴いた。彼は、バスケ部のイケイケカップル2組と一緒に居たのだ。その日はまあそれだけで家に帰ったのだが、彼と私の共通の友人である男からLINEが来た。「悲しいお知らせがあるけど聞きたい?」と言われた。私ははいと答えてその内容を聞いた。私の好きなその彼には、彼女が居るというのだ。本当はトリプルデートの予定だったが、彼の彼女が来られなくなっていたらしい。「今日のお祭りでお前を見ててつらくなってさ 黙っててごめん」と、なんともカスなことを言われた。私は絶望した。今まで1年以上かけて築き上げてきた彼との大事なものが、誇張ではなく崩れ落ちる音がした。風呂場の鍵を閉めて大号泣した。彼が私に甘い言葉をかけていたあの時間にも、彼にはとびっきり可愛い彼女がいて、器用に連絡を平行してやりとりしていたのだ。つまり女たらしだったのだ。

さらに後から聞いて分かったが、彼には私の他にも頻繁にやり取りをする女の子が複数居た。私を今まで褒めてくれたあの言葉も全部嘘だったんだと、ただでさえなかった自信を失くし、人を信じることが出来なくなった。人間不信の大完成である。

その後、色々あって私が彼に責められる立場になってしまい、「全部私が悪かった」となぜか私が謝罪し、つながりは断たれた。それ以降は彼を避けて卒業まで生活した。人に褒められても信じることができず、自信の付け方というものがさっぱり分からなくなり、さらに引っ込み思案になっていった。ますます自分の見た目が醜く思えて、二つ結びすらできなくなり、自分から話しかけるということができなくなっていた。

それ以降は長らく人を好きにならなかった。知らぬ間に好きになられたことはあったが、全部どうでもよかった。

不憫さを確かめる日記 24

中学一年生の冬ごろの話。

それまで10年ほど住んでいた都営アパートはとっくに契約の期限を過ぎており、引っ越さなければいけなかった。父親が主となって引越し先を決めた。離婚をするならこのタイミングがベストだと私は思っていたが、母親は片親の経済力で4人で住めるような引越し先を見つけるのが間に合わなかったのか、とうとう引越しが決まってしまった。母親は、父が決めたその新居を一度も見に行くことはなく、私たち子供が撮ってきた写真を見て把握していた。その家は賃貸ではなかった。リノベーションが施され、狭い間取りを誤魔化すために家の中がフローリングから何までが白く統一されていて、やけに明るく、とにかく居心地が悪かった。引越しのとき、父は私たちに向かって『家が狭い分、家族の距離も縮まるよ!』と言ってきたが、私はよくそんなことが言えるなと思った。冗談でも言えないぞと思った。父親もこの関係が良くなるなんて思ってはいなかっただろうから、本当に諦めの上で言ってみただけなのかもしれないが。

不憫さを確かめる日記 23

中学一年生の頃の話。

小学校を卒業して、中学に入学するまでの春休みの間、母方の実家に父親を除く4人で帰省していた。東京に帰ってから、翌日の仕事のために早く寝た母親の分の荷物を勝手に私が片付けていると、キャリーバッグのポケットから、空欄の離婚届が出てきた。卒業して間もない頃の私はまだ、そこまで父親のことを拒絶していなかった。まだ色々なことを知らなかったからだ。そのため両親が離婚するというのは、つらいことに思えた。いつから間違ってたんだろう、とか、私がもっといい子にしていればこんな風にはならなかったのかなというどうしようもない思考が私を支配して、その日はお風呂場で嗚咽を漏らすほど泣いた。「離婚するかもしれない」ということを知っているのは私だけだった。姉と弟には言わなかった。その日から、いつも私の頭の片隅には「離婚」という文字が居座っていた。

不憫さを確かめる日記 22

中学一年生の頃の話。

当時、テレビで流れる積水ハウスのCMが本当に嫌いだった。夜ご飯の間、父親がいるときは沈黙を紛らわすためにいつもテレビの音量を上げていたのだが、そこに「世間で理想とされる家族関係」と、「広くてきれいな家に住めるような経済力」がありありと映し出されると、自分の家とのあまりの格差に、産まれてこなければ良かったという気持ちになった。「たまたま産まれた家庭が金持ちだった子供はいいな」と何度も思った。そんな子供は、この屈辱を慣れるほど味合わずに生きているのだと思うと、憎かった。もう産まれてしまったことをどうすることもできないが、それでも逃げ出したいくらい苦しい気持ちになっていた。その頃、自殺を助長する恐れがあるからと、映画から自殺シーンを排除する対策が施行されたということをニュースで知った。私は、そんなことよりも積水ハウスのようなCMを停止した方がいいと思っていた。いつも、最悪の気分で咀嚼したご飯を飲み込んでいた。

不憫さを確かめる日記 21

小学生の頃の話。

自分の苗字の漢字が変わった。画数の多い旧字に変わったのだ。なぜそうなったのかは当時知らなかったが、実際のところはこうだ。母親が弟を産んだとき、病院で『簡単な方の漢字にしますか?そちらのほうがこの先大変な思いをしなくていいと思いますよ。』と言われ、何気なく、旧字ではなく簡単な方の漢字にしたのだった。しかし、父方の祖父母が(なぜか勝手に)戸籍を取り寄せたとき、『どうしてこっちの漢字になっているんだ‼️』と激昂したらしい。父方の祖父母は、父方の苗字を私たち子供に継承させて残したいらしい。先祖代々のあれがうんたらとか言って、母親に文句を言った。その頃は家のポストによく家庭裁判所から通知が来ていた。なんて面倒な人たちなんだと思った。そんな表皮的な形式ばかりを気にして何になるのだろうと思った。やはり父や父方の祖父母は、私たちを所有物としか思っていないのである。いつも考えるのは人の気持ちではなく、自分の損得感情なのだ。当時は分からなかったが、私はずっとそういうところが嫌いだった。