不憫さを確かめる日記 20

中学生の頃の話。

その頃から、誕生日と、母の日、父の日は毎年地獄だった。父親の方針で夜ご飯は必ず家族みんなで食べないと許されなかったが、とりわけ誕生日や母の日父の日は、特別なことをしないといけなかったから、地獄だった。特に誕生日はつらかった。父親が食卓にいるだけで憂鬱なのに、父親の前で楽しいフリをしたり、盛り上がるフリをしないといけないからだ。父親さえいなければ素直にリアクションができるのに、父親がいるだけでそれがとても憂鬱なことに変わり、何をするにも躊躇われた。自分が喜んでいるところや、楽しそうなところを父親に見られたくなかったのだ。姉は両親の間で中立の立場でいようと努めていてくれて、よく父親の機嫌を取っていたが、私と弟は父親を拒絶し始めていた。地味に嫌なのが "いい夫婦の日"だ。朝学校に行く前にテレビをつけると、否応なく道ゆく仲のいい夫婦のインタビューばかりが写し出されて、最悪の気分になった。その頃から、うちの家庭はどこから間違っていたんだろう、と考えるようになっていた。

不憫さを確かめる日記 19

小学校低学年ごろの話。

姉がバレンタインでクッキーを作っていたのが羨ましかったのでお手伝いをさせてもらっていた。その際、姉は『こぼしたりしないでね』と私に釘を刺したが、私は手伝いを始めてすぐに、ボウルの中の粉を混ぜるときに盛大にこぼしてしまったのだ。それを見た姉は『あーもう ほらやっぱり』と私を叱った。私は黙って風呂場に行って服についた粉をはたいた。我慢していたけどやっぱり涙が出てきて、お風呂場でちょっとの間泣いた。姉に面倒だと思われたことや、失敗したことへの罪悪感が私を満たしていた。泣いていることがバレるのは何よりも嫌なので、頑張って目を乾かしてから、何事もなかったようにキッチンへと戻った。

不憫さを確かめる日記 18

中学一年生の頃の話。

その頃すでに会話のほとんどなかった両親が喧嘩しているところを目撃する。私が学校に行く前の朝、部屋で支度をしていると、リビングから怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら母親は、父親が買ってきた "(その頃流行っていた)頭皮に沿わせて使うとゾクゾクして面白いやつ(スカルプマッサージャー)" を見て、「こんなもの買うお金あるんだったらもっと家のこと考えてよ」と溜まりに溜まった不満をこぼした。そこから父親が怒鳴り、喧嘩が始まった。私の記憶にある両親の喧嘩はこれが最初で最後である。この喧嘩がきっかけで、ますます距離は離れていった。母親がさまざまなことを諦めたのであろう。その日の放課後、母親からLINEで「今朝は嫌なもの聞かせてごめんね」と来た。私は無理しないでねと絵文字付きで送った。その日は気が重かった。

不憫さを確かめる日記 17

小学校高学年くらいの話。

私が小学一年生の頃までは、母親は専業主婦をやっていた。しかし、小学二年生になった頃からは母親が仕事をするようになり、私の家庭は共働きとなった。私は、母親が父方の祖母からひどい扱いを受けているのをこっそり知っていたし、そんな中働いて、疲れて帰ってきてご飯を作って洗い物をしてお風呂を洗って掃除をして洗濯をして…と一日中気の休まる時間がない母親を常に心配していた。姉や弟はそういうことを全く気にかけるタイプではないから、私だけが過剰に心配していた。だから私は、学校から帰ってくるとまず家族全員分の洗濯をするようになった。家族5人分の洗濯を取り込んで、干して、畳んで、片す。家中の掃除もやった。弟はその頃反抗期で、ゲームをしながら食べたお菓子のゴミを床に投げ捨てるような、手の付けられないクソガキだった。私はそれをため息をつきながら拾って捨てる。「ちゃんと捨てて」と弟に言うと、かならず怒鳴られる。あるとき、『なんでお前みたいな人間がいるかなぁ』と言われた。そのときは流石に怒りでどうしようもない気持ちになって泣きそうになった。授業が終わって学校から帰ったら、洗濯をして、家中の掃除機をかけて、食器を洗って、お風呂も洗っていた。そして母親が帰ってきてそれを褒めてくれるのをやりがいに、勝手に家事を頑張っていた。しかし、これが結構精神にくるのだ。姉は出かけてばっかりだし、弟はゲーム以外何もしないし、「私だけがなんで」と勝手に思っていた。そして、学校のみんなが家事なんかしなくてものうのうと生きてられることが憎かった。私はその頃から精神がイヤに大人びていたのである。

不憫さを確かめる日記 16

小学五、六年生の頃の話。

クラス内で、窃盗事件が多発した。最初はクラスの半分の人間の名札が一斉に盗まれ、後日、学校から少し離れた野球グラウンドの花壇に埋められているのが発見された。その次はクラスの3分の1ほどの歯ブラシが盗まれ、その後は特定の5人の女子に絞られ被害が続いた。私はその被害者5人のうちの1人だった。私が盗まれたものは数多にわたる。名札、歯ブラシ、私服、体育着、ノート、定規、ペン、ハンカチ、鍵盤ハーモニカ、、私の道具箱やロッカーの中身は3、4割が盗まれていた。そして、それは半年から一年後、破壊された状態で発見されるのである。最悪の気分だった。ここで私が考えるのは、(母親に買ってもらったのに…)ということであった。たかが定規でも、たかがハンカチでも、母親が働いたお金で買ってもらったものが壊されたのだと思うと、悲しくて涙が出た。しかし被害者は私の他にも4人ほど居たため、"いじめを受けている"というような感覚ではなかった。(結果的には1対5だったのである。) ある日の放課後、担任に『お家の人に連絡したいから放課後家に電話をかけたいんだけど、ご両親のどちらかはいるかな?』と聞かれ「ああ、いると思います」と適当に答えてしまった。しかしその日のその時間は母親は仕事で家を出ていて、父親が仕事に行く前の時間であった。急いで家に帰ったものの、案の定父親が電話をとったらしく、ひどく心配された。弟と姉が家にいることを配慮して、私は部屋に連れていかれ、2人きりの状態で話をされた。電気もつけずに扉を閉めて、背中をさすられながら『そんなことする奴が馬鹿だから気にするな』と慰められたが、私は悲しくもないのに涙が出た。そんな風に慰められると、ますます自分が可哀想な状況に置かれているのだということを理解してしまって、そのどうしようもなさに涙が出てくるのだ。泣けば泣くほど父親は私が辛いのだと勘違いして慰める。慰めは私にとって逆効果であり、最悪の状況だった。父親が仕事に行き、母親が帰ってきた。私はお風呂に入っている母親に扉越しに「学校で私物を盗まれている」と自ら伝えた。すると母親は特に扉を開けたりもせず、『気にする必要ないよ』とだけ言った。私はその距離感が何よりも信頼できたし、何よりもありがたかった。しかし、この学校での出来事は総じて私の人間不信をますます成長させたのであった。

不憫さを確かめる日記 15

小学五年生の頃の話。

私が通っていた小学校は生徒数が少なく、当時は1学年につき1クラスしかなかった。そのためクラス替えという概念がなく、一年生から六年生になるまで同じクラスメイトで過ごすのが普通とされる学校だった。

そんな中、そこそこ仲のよかったクラスメイトの女の子に『プロフィール帳を書いて欲しい』と渡された。私はそれを承諾し無難に書いて渡したのだが、その数日後、別の女子に教室の向かいにある多目的室に呼び出され、2人きりの空間で『学校にプロフィール帳持ってきちゃダメでしょ、分かってんの?』と詰められた。「え。どういうこと?」と聞くと、『とぼけないで。こっちは分かってんの。あなたの名前が書いてあるプロフィール帳がゴミ箱にあったけど』と言われた。私は一瞬思考が止まった。プロフィール帳を書いてくれと渡してきた女の子は、幼稚園から一緒だったのだ。もう7年もの付き合いになる子なのだ。私は、その子に、プロフィール帳を書いてと言われて、書いたプロフィール帳を、クシャクシャに握りつぶされ、破かれて捨てられたのである。「それは私が捨てたんじゃない 書いてと言われて渡された」と言うと、その子は『あ、そうだったの それはごめん』と言い、私は解放された。

この事を本人に問いただすことはしなかった。本当のことを知ってもどうにもならないと思ったからだ。しかし、私の人間不信が成長するには十分な肥料であった。

不憫さを確かめる日記 14

小学校高学年の頃の話。

姉の古いスマホを借りたとき、ふと好奇心からメールアプリを見てみたことがあった。そこにはどうしてか"父方の祖母"と母親とのやりとりがあった。見てみると、祖母から母親に対するひどい言葉が並んでいた。あまり詳細までは覚えていないが、『常識がない』『戸籍をこちら側に移せ』『何をやっているのか分からないのか』『今月のゼクシィを買って読め‼️』などという数々の煩わしい長文メールが定期的に送られてきていた。私は衝撃だった。私はそれまで、「たくさん欲しいものを買ってくれるやさしいばあばあ」という印象でしかなかったのだ。それ以降、父親に連れられて祖母と会わされるたびに拒否反応が出た。何をされても虚偽にしか思えないのである。私の人間不信の第一次成長期はここではないかと思う。